海外メディアが報じる日本

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ファイザー創業講談

たくさんのヨーロッパ人が移民としてアメリカに渡った時代、チャールズ・ファイザーは船の中にいた。

「俺はアメリカで鉱山を掘ってひとやま当ててみせるよ」
「いやいや、銀行を作った方が儲かるよ。これからは金融の時代だ」

それを聞いていた彼は思った。
俺はそんな博打みたいなことはやらない。
ビジネスは博打とは違う。
人の役に立つ仕事ができるかどうか、それだけなんだ。

彼がニューヨークで開いたのは小さな薬屋だった。
ヨーロッパから仕入れた薬を近所の人に売る、ごく普通の店。
しかし他の店と違ったのは、しっかりと検証を行い、品質を厳しく管理したこと。

「胃薬に軟膏、君が持ってきてくれる薬は効き目がいい。ありがとう、また頼むよ。」

彼は歩いて近所を回り、薬を届けた。
「よし、近所の人が喜んでくれている。もう少しだけ商売を広げてみるかな。」

やがて評判が広まり、隣町からも注文が入るようになると、彼は馬車で薬を届けるようになった。
「こっちの街はまともな薬局が無いんだ、助かるよ。君のところの薬はどれも質がいい。また来てくれよ。」
こうして彼は少しずつ薬を届ける範囲を広げていった。

祖国ドイツに戻っていい薬を買い付け、アメリカで売る。これを繰り返していった。

いつか船で一緒になった人が彼をたずねて来て言った。
「まいったよ、一攫千金なんてうまくいかないよ。俺も君みたいに堅実な商売をやれば良かった。」

彼は帳簿を確認しながら言った。
「需要があると分かってから、少しずつ商売の範囲を広げるんですよ。これが僕たちドイツ人が考える一番の合理的な方法です。当たり前のやり方のはずなのに、これがやれる人は実は案外少ないんです。」

彼は薬を仕入れて売るだけでなく、薬の製造にも乗り出していった。
集められたのは彼と同じ、ドイツからアメリカに渡った若者たち。
「いいですか、我々の会社は品質が第一です。良い薬を作ってこそ、信用が広がるんです。」

薬を作る部門、販売する部門、それぞれの部門で彼は同郷のドイツ人を雇い、自分の考えを根気よく説明した。
結果、輸入品よりも安くて品質が良い薬を作ることに成功した。

「あのドイツ系の会社の薬なら間違いない。」
彼の会社の評判がアメリカ北部でじわじわと広まっていった。

そんな折、アメリカは戦争に突入。
1861年南北戦争が勃発した。
負傷者が大量に出るなか、北部軍に選ばれたのは彼の会社の薬だった。
5年間の戦争のなかで、アメリカ中に彼らの製品が知れ渡ることになった。

そして第二次世界大戦のさなか、抗生物質ペニシリンの生産に乗り出してからは一気にその規模を拡大、やがて世界有数の会社へと成長したのだった。