彼はいつも自分のルーツを探していた。
父親はアイルランド人、母親はアラブ系のギリシャ人。
しかし両親は彼が4才の時に離婚し、彼は親戚に育てられた。両親の記憶はほとんど無い。
「僕は自分のルーツが分からない。どこにいてもしっくり来ない。僕の居場所はどこにあるんだ。」
学校を出ると彼はアメリカへ渡った。
文章を書くのが好きだった彼は自分の視点で見たアメリカでの出来事を書き、新聞に投稿した。
その記事は高く評価され、彼は新聞社の契約記者として抜擢された。
しかし彼の心にはまだモヤがかかっていた。
新聞の仕事は楽しい。
ただ僕の居場所は、このアメリカじゃない気がする。
ある日ふと彼の目に、後輩の記者が書いた記事が飛び込んだ。
それはその記者が世界旅行をしたことを記した記事。
その中でもひときわ彼の目を引いた文章があった。
「ほとんどの人は知らないだろうが、その国はとても清潔であり美しい。住んでいる人々は文明社会に汚染されていない。まるで夢のような国だ。」
気づいた時には彼は船のチケットを買っていた。
あの記事に書かれている夢のような国、それが僕が求めている場所なのかもしれない。
一路彼が目指した国、それは日本だった。
彼を乗せた船は横浜港に入った。
初めて日本の地を踏んだ彼はその光景に驚いた。
何という国、何という秩序だ。
屋敷は全て緻密な作りで整然としている。
人びとの暮らしの中に細やかな芸術が宿っている。
文字も美しい。曲線を多用していて、それはまるで人々の心を表現しているようだ。
きっと僕は、この場所に長く居ることになる。
来日初日で彼はそう直感した。
彼はその気持ちを文にしたためた。
「日本はルーツを持たない僕を受け入れてくれた。僕も日本のこの秩序の一員になってもいいんだ。何て居心地がいいんだろう。僕はまるで千年もここに住んでいるようだ。」
やがて彼は契約していたアメリカの会社とは袂を分けた。
そして日本の文化を書き記しながら、英語の教師として生きる道を選んだ。
「いいですか。英語というのはこれから開かれた国になる為に、大切な物になります。しかしもっと大切な物があります。私が日本に来て感動した美しい物、この世界の中でここにしかない居心地を作っている物、それは伝統と新しさを見事に調和させた街並み。そして、箸置き、手ぬぐい、陶器、そういった日用品が全て芸術品であること。みな、ここにしか無い物です。大切にして下さい。」
東京帝國大学で教鞭を取りながら日本文化を世界に知らせる活動を行ったパトリック・ラフカディオ・ハーン。
日本名は小泉八雲と名乗った。