1944年、福田は満州に居た。
大阪外国語大学の生徒だった彼は学徒出陣により学業を中断され、戦車を運転するための訓練をしていた。
「おい、ボサボサするな。さっさと戦車を前進させろ。」
機械のことなどさっぱり分からない彼は訓練生の中で落ちこぼれだった。
「前進…前進…どこをどうすればいいんだ?」
「お前は何をやってるんだ。それでも軍人の端くれか。」
成績が悪かった彼は戦地に送られることはなく、来るべき本土決戦に備える為に日本へ送り返された。
1945年、彼は栃木に居た。
いよいよ本土決戦が近いらしい。
そんな中、上陸してくる連合軍に戦車で立ち向かう作戦が伝えられた。
しかし彼には大きな疑問があった。
戦車でアメリカと戦うと言っても、この辺りに居る日本人はいったいどうなるのか。
彼は将校に質問した。
「将校。連合軍が上陸してくれば、ここらへんに住んでいる人たちは恐れをなして、北へ北へと狭い道を逃げるでしょう。そこへ我々の戦車が連合軍と戦う為に南へ南へと進む。その交通整理はどのように実施すべきでしょうか。」
将校は答えた。
「構わん。水ぎわで連合軍を叩きのめす為、南へ進むのだ。道を邪魔する者は轢き殺せ。」
福田は愕然とした。
「道を邪魔する者は轢き殺せ?俺は何のために戦車に乗るのか。この国を守るためでは無かったのか。この国を守るために、この国の逃げまどう人たちを轢き殺すのか。」
彼は涙を流していた。
「どうして日本はこんな酷いことをするようになってしまったんだ。」
その日から彼はそのことばかり考えるようになっていた。
そして8月、日本はポツダム宣言を受諾し、本土決戦は行われなかった。
しかし彼の頭にはまだあの将校の言葉がこびり付いていた。
邪魔をする者は轢き殺せ。
本来日本人はこんなでは無かったはずだ。
伝統だって人情だって誇りだってあった。
戦争が終わった今こそ、そこにフォーカスしなければならない。彼は猛烈な使命感に駆られた。
あの戦車の時代も、本当の日本の一面に違いない。でもそればかりじゃない。
仲間を助け、礼を重んじ、誇りを持つ。
そんな人たちが活躍する話を書こう。
こうして彼はペンを取り、数々の歴史小説を残していった。
「史記」を書いた司馬遷には遼かに及ばない、日本の者。
筆名は司馬遼太郎とした。