海外メディアが報じる日本

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三浦雄一郎講談

青森の高校で、三浦は負けなしだった。
北海道大学に進んでも毎日スキーざんまい。
社会人になったあと、彼の目標は明確になった。
「俺はオリンピック日本代表になる。」

しかし彼はそのオリンピック代表を決めるスキー連盟のやり方に疑問を持っていた。
「すいません、こんなこと選手が言うのは筋が違うかもしれないですが、今の連盟は選手より役員の方が多い。それっておかしくないですか?役員が私腹を肥やしているとしか思えない。僕は連盟のあり方は間違っていると思います。」

結果、三浦は試合への出場資格を剥奪された。
マチュアスキーの世界から永久追放されたのだ。

「俺はもうスキーを諦めなければいけないのか。」
失意に暮れ、ふと彼は古いアルバムを開いた。
その中に、父親が撮った写真を見つけた。
「すごい写真だ。どれも父にしか撮れない、ダイナミックな写真ばかりだ。」

雄一郎の父、敬三は公務員でありながら山岳スキーヤーで、世界的な写真家でもあった。

そうか。親父は元々ある何かに自分を当てはめにいったんじゃない。自ら仕事を作り出してオリジナルな存在になったんだ。俺もこれしかない。音楽の世界では作詞作曲、編曲、歌、全部をやる人はいる。でもスキーの世界で冒険のプランを立てて、挑んで、実際に成し遂げる、そんなのやってる人はいない。
こうして彼はアドベンチャースキーというジャンルを開拓。そのパイオニアとなり、世界から注目を集めることとなった。

次の転機は60代にやってきた。
世界記録を次々と打ち立てた三浦は60才で潔く引退を宣言。講演活動をメインに行い一切のトレーニングを辞め、後進を育てる為に毎晩若者を集めて焼肉、ビールざんまいの日々を過ごした。
あっという間に体重は100kgを超えた。
医者は言った。
「高血圧、高脂血症、糖尿病…。三浦さん、これじゃ余命3年だよ。」

「何をやってるんだ俺は…。」

そこにやってきたのは90才を超えた父親の敬三。
「雄一郎。俺は99才でフランスのモンブランに行ってスキーで滑走することに決めた。お前はこれからどうする?」

「えっ、俺…?うーん、じゃあエベレストかな。そうだ、そうする。俺は70才でエベレストに登るよ。」
こうして彼は再び猛特訓を始め、冒険の世界に復帰。
宣言通り70才でエベレスト登頂に成功したのだった。
「親父、やったぞ。親父のカッコよさには及ばないけど、でも俺も俺でオンリーワンになったぞ。」

その後彼は75才、さらに80才でもエベレスト登頂に成功。
エベレストの最高齢登頂者としてその名を刻んだ。