海外メディアが報じる日本

海外メディアが日本の出来事をどう報じているか?解説付きで日々お届けします

SHARP創業講談

早川徳次シャープペンシルを発明した。
しかし全く売れなかった。

「物を書く道具なのに、温かみが無いよ。こんな金属的な物はダメだね。」

営業回りをしても結果は散々。
でも彼はあきらめなかった。

「こんなにちゃんと作った物が売れない訳がない。絶対にシャープペンシルの時代が来る。」

自らにそう言い聞かせ、靴をすり減らしながら文房具屋を回った。

そんな彼のシャープペンシルに目を付けたのはアメリカやヨーロッパの商社だった。
「素晴らしい。これほど質の高い文房具は見たことが無い。」
彼らはそう言って徳次のシャープペンシルを大量に買っていった。

「やったぞ。時代の先を読む。丁寧なものづくりをする。この2つがあれば物は売れるんだ。」

彼は工場を作り、事業を拡大していく。
従業員は200人を超え、さらに大きな工場を作ろうと計画していた。

しかし突然、彼は全てを失った。

1923年9月1日、関東大震災が起きた。
妻と、2人の子供が死んだ。

借金の返済の為にシャープペンシルに関する全ての権利も売り払ってしまった。

家族も会社も、愛を込めて作ったシャープペンシルも、全部無くなった。
「もう、俺はダメかもしれない。」

トボトボと町を歩きたどり着いたのは、商店街の時計屋。
そこで徳次は人生を変えるものに出会う。

「見たことの無い機械だな…。いったいこれは何なんだ。すみません、これはどういう商品なんですか?」

「ああこれは、アメリカから届いたばかりのラジオだよ。」

「これがラジオか…。そういえば来年からラジオの放送が始まるっていう新聞記事を見たな。これはチャンスかもしれない。」

彼はなけなしの金でラジオを買った。
家に持ち帰り、ドライバーでおもむろにラジオの分解を始めた。

「なるほど、こうなってるのか…。なら俺はこのアメリカ製よりいいラジオを作ってみよう。」
何度も試作を繰り返し製品が完成したのは、本放送が始まる直前のこと。

「やったぞ。時代の先を読み、丁寧なものづくりをする。ちゃんとした物を作る。そうすればそれは絶対に売れるんだ。」

本放送が始まると、彼のラジオは飛ぶように売れていった。
そのラジオに刻印されているのは、自分の発明の原点であるシャープペンシルから取った名前、SHARP

工場から次々にシャープのラジオが出荷されるのを見て、家族と会社を失った徳次の顔に、ようやく笑顔が戻ったのだった。

クルト・ゲーデル講談

アインシュタインは言った。
「なあ、ゲーデル君。僕は君の論文を読んでたまげてしまったよ。不完全性の定理。どんな数学の理論にも、証明も反証も出来ない命題が存在する。こんなことを言ったのは君だけだよ。僕は君を尊敬する。」

ゲーデルは言った。
アインシュタインさん、分かりました。だからと言って、面接試験にまで来なくてもいいですよ。」

場所はアメリカの移民局。
ナチスドイツからの迫害を恐れて、ゲーデルアメリカへと亡命したあと、アメリカの市民権を得る為の面接を受けるところだった。
アメリカへ先に移住していたアインシュタインゲーデルのことが心配になって面接会場に駆けつけたのだった。

「君は天才だ。しかし少々物事を突き詰め過ぎてしまうことがある。面接ではそこに気をつけてくれよ。」

面接官による面接が始まった。
ゲーデルさん、アメリカがナチスドイツのような独裁国家になる可能性はあると思いますか?」

付き添っているアインシュタインは心の中で叫んだ。
ノーと言ってくれ、ノーと!何も考えず、そんなことはありません、それで面接はパスだ。

しかしゲーデルの答えはそうでは無かった。
「私はアメリカ合衆国憲法をくまなく読んで、そこに致命的な論理の矛盾があることを発見しました。だからアメリカが独裁国家になることは、あり得ます。」

アインシュタインはうなだれた。
この天才がナチスの元に強制送還されてしまったら、それは世界の損失だ。

しかし面接官の口からは意外な言葉が出た。
「もういいです、ゲーデルさん。あなたの功績は私の耳まで届いています。あなたは研究を続けるべき人だ。私は今のあなたの言葉は聞かなかった。ようこそアメリカへ。」

アメリカへ移住した後もゲーデルアインシュタインと切磋琢磨し、次々と新しい論文を書き上げた。

しかし思い込んだら止まらない彼の性格はエスカレートする。
「僕は命を狙われているかもしれない。なぜなら狙われていないということを決して証明することは出来ないからだ。じゃあ狙う方法は何だ?そうだ、毒殺だ。」

そう思い込んだ彼は、妻が作った料理以外は一切口にしないという生活をした。

悲劇は静かにやってきた。
妻が病に倒れ入院。
家に一人残された彼はみるみる痩せていった。
「自分で作った料理だって毒が含まれていないことは証明できない。だから僕は妻の帰りを待つ。」

飲まず食わずでひたすら論文を書いた。
栄養失調で病院に運ばれた時はもう手遅れ。
彼の体重は29kgにまで落ちていた。

ゲーデルは最期に言った。

「こだわりを捨てたら、それは死ぬことだ。こだわりを貫いて死ぬなら、それでいい。」

司馬遼太郎講談


1944年、福田は満州に居た。
大阪外国語大学の生徒だった彼は学徒出陣により学業を中断され、戦車を運転するための訓練をしていた。

「おい、ボサボサするな。さっさと戦車を前進させろ。」

機械のことなどさっぱり分からない彼は訓練生の中で落ちこぼれだった。
「前進…前進…どこをどうすればいいんだ?」

「お前は何をやってるんだ。それでも軍人の端くれか。」

成績が悪かった彼は戦地に送られることはなく、来るべき本土決戦に備える為に日本へ送り返された。

1945年、彼は栃木に居た。
いよいよ本土決戦が近いらしい。

そんな中、上陸してくる連合軍に戦車で立ち向かう作戦が伝えられた。

しかし彼には大きな疑問があった。
戦車でアメリカと戦うと言っても、この辺りに居る日本人はいったいどうなるのか。

彼は将校に質問した。
「将校。連合軍が上陸してくれば、ここらへんに住んでいる人たちは恐れをなして、北へ北へと狭い道を逃げるでしょう。そこへ我々の戦車が連合軍と戦う為に南へ南へと進む。その交通整理はどのように実施すべきでしょうか。」

将校は答えた。
「構わん。水ぎわで連合軍を叩きのめす為、南へ進むのだ。道を邪魔する者は轢き殺せ。」

福田は愕然とした。
「道を邪魔する者は轢き殺せ?俺は何のために戦車に乗るのか。この国を守るためでは無かったのか。この国を守るために、この国の逃げまどう人たちを轢き殺すのか。」

彼は涙を流していた。
「どうして日本はこんな酷いことをするようになってしまったんだ。」

その日から彼はそのことばかり考えるようになっていた。
そして8月、日本はポツダム宣言を受諾し、本土決戦は行われなかった。
しかし彼の頭にはまだあの将校の言葉がこびり付いていた。

邪魔をする者は轢き殺せ。

本来日本人はこんなでは無かったはずだ。
伝統だって人情だって誇りだってあった。
戦争が終わった今こそ、そこにフォーカスしなければならない。彼は猛烈な使命感に駆られた。
あの戦車の時代も、本当の日本の一面に違いない。でもそればかりじゃない。

仲間を助け、礼を重んじ、誇りを持つ。
そんな人たちが活躍する話を書こう。
こうして彼はペンを取り、数々の歴史小説を残していった。

史記」を書いた司馬遷には遼かに及ばない、日本の者。
筆名は司馬遼太郎とした。

マクドナルド兄弟講談

「兄さん、まだ誰もやってないレストラン、僕らならきっとできるよ。ほら、これが設計図。」

弟は自分が書いた店の設計図を兄に見せた。

「なるほどな…。カウンターの目の前にキッチンか。これならすぐに料理を提供できるな。ただこれだとさ、作れる料理の数はずいぶん少なくなってしまうよな。」

「兄さん、そこが狙いだよ。美味くて飽きの来ない物だったら、品数はむしろ少ない方がいい。素早く出せば、どんどんお客は来てくれるはずさ。」

弟の読みは見事的中し、兄弟が開いたレストランは連日大盛況。彼らは毎日店に立ち、必死に働いた。

ある日兄は弟に言った。
「どうだろう、もう少し飲み物を早く出せないかな?オーダーが入ってから作るとどうしても時間がかかってしまうだろう。」

弟は言った。
「それなら兄さん、大きな機械を入れて、作り置きすればもっとスピードアップ出来るよ。少しお金も貯まってきたから、思い切って機械を入れてみようよ。」

「そうだな。よし、機械のメーカーの人に来てもらおう。」

こうして兄弟は、機械メーカーの営業マンを店に呼んだ。
「いやあ、素晴らしい店ですね!料理を出すスピードが早くて、いつも若者で賑わっている。こんなにすごい店は見たことがない。うちの機械も、この店できっといい仕事をしますよ。」

営業の男は飲み物の機械をキッチンに設置した。
「これでこの店はますます繁盛すること間違い無しです。しかしこれだけの繁盛店が1店舗だけっていうのはもったいないなあ…。是非一緒に店舗を増やして、儲けようじゃないですか!」

兄は言った。
「ダメだよ。そんなことしたら、味が落ちる。僕たちのこだわりは、そんな簡単に人が真似できるようなものじゃないんだ。」

しかし弟の反応は違った。
「兄さん。兄さんの病気が悪くなってるのを僕は知ってるんだよ。これからきっと医療費もかさむよ。だからこの人の言うようにしてみようよ。」

結局弟の説得により、兄は渋々男の案に賛成をした。
しかしその男はそこから態度を豹変させた。
自分こそが店の創業者だと名乗り、フランチャイズオーナーの勧誘を始めた。
そしてあっという間に店舗を増やし、利益を上げていった。
兄弟はそれを指をくわえて見ているしかなかった。

男は言った。
「私に全ての権利を預けて下さいよ。そうすれば幾ばくかのお金が入って、あなた達の老後は安泰です。もう毎日店に立つ必要もないんですよ。」

兄弟は長いあいだ、自分達の味を守る為に働きづめだった。確かに体はクタクタになっていた。

弟は言った。
「兄さん、僕たちの時代は終わったのかもしれない。でも僕たちの名前が残るなら。それは素晴らしいことじゃないか。ねえ兄さん。」

弟はベッドに寝ている兄を起こし、契約書にサインをした。
こうして二人は、自分たちが作った店を手放したのだった。

三浦雄一郎講談

青森の高校で、三浦は負けなしだった。
北海道大学に進んでも毎日スキーざんまい。
社会人になったあと、彼の目標は明確になった。
「俺はオリンピック日本代表になる。」

しかし彼はそのオリンピック代表を決めるスキー連盟のやり方に疑問を持っていた。
「すいません、こんなこと選手が言うのは筋が違うかもしれないですが、今の連盟は選手より役員の方が多い。それっておかしくないですか?役員が私腹を肥やしているとしか思えない。僕は連盟のあり方は間違っていると思います。」

結果、三浦は試合への出場資格を剥奪された。
マチュアスキーの世界から永久追放されたのだ。

「俺はもうスキーを諦めなければいけないのか。」
失意に暮れ、ふと彼は古いアルバムを開いた。
その中に、父親が撮った写真を見つけた。
「すごい写真だ。どれも父にしか撮れない、ダイナミックな写真ばかりだ。」

雄一郎の父、敬三は公務員でありながら山岳スキーヤーで、世界的な写真家でもあった。

そうか。親父は元々ある何かに自分を当てはめにいったんじゃない。自ら仕事を作り出してオリジナルな存在になったんだ。俺もこれしかない。音楽の世界では作詞作曲、編曲、歌、全部をやる人はいる。でもスキーの世界で冒険のプランを立てて、挑んで、実際に成し遂げる、そんなのやってる人はいない。
こうして彼はアドベンチャースキーというジャンルを開拓。そのパイオニアとなり、世界から注目を集めることとなった。

次の転機は60代にやってきた。
世界記録を次々と打ち立てた三浦は60才で潔く引退を宣言。講演活動をメインに行い一切のトレーニングを辞め、後進を育てる為に毎晩若者を集めて焼肉、ビールざんまいの日々を過ごした。
あっという間に体重は100kgを超えた。
医者は言った。
「高血圧、高脂血症、糖尿病…。三浦さん、これじゃ余命3年だよ。」

「何をやってるんだ俺は…。」

そこにやってきたのは90才を超えた父親の敬三。
「雄一郎。俺は99才でフランスのモンブランに行ってスキーで滑走することに決めた。お前はこれからどうする?」

「えっ、俺…?うーん、じゃあエベレストかな。そうだ、そうする。俺は70才でエベレストに登るよ。」
こうして彼は再び猛特訓を始め、冒険の世界に復帰。
宣言通り70才でエベレスト登頂に成功したのだった。
「親父、やったぞ。親父のカッコよさには及ばないけど、でも俺も俺でオンリーワンになったぞ。」

その後彼は75才、さらに80才でもエベレスト登頂に成功。
エベレストの最高齢登頂者としてその名を刻んだ。

ジェーン・バーキン講談


その女はロンドンで生まれた。
母親は有名な舞台女優、父親は第二次世界大戦で活動したイギリス軍のスパイだった。

ワイト島の学校に通っていた彼女は、17才の時にジョン・バリーという男と出会った。
彼は007の楽曲を手がける著名な作曲家。
2人は恋に落ち、結婚をし、子供を1人産んたが、3年で離婚をした。

女はロンドンに戻り、たくさんのオーディションを受け、無名の女優として活動を開始した。

鳴かず飛ばずのまま4年が経ったとき、彼女の運命を変えたのは「スローガン」という映画だった。
この映画で共演した相手役と彼女は意気投合し、生活と音楽活動をともにするようになる。

彼が曲を書き、彼女も歌手として参加した最初のシングル曲はフランスで大ヒットとなった。
しかし、「ため息が卑猥すぎる」としてイギリス、イタリア、スペインでは放送禁止となってしまった。
このヒット曲以来、彼女は女優として、また歌手としてフランスの国民的スターとなっていく。
男もまた、フランスを代表する作曲家として名を馳せた。

ある日女はシャルル・ド・ゴール空港からヒースロー行きの飛行機に乗った。

頭上の棚に、愛用していた藤編みのカゴを入れようとした時、落として中身を全部ぶちまけてしまった。

隣に座っていた男はそれを拾うのを一緒に手伝い、彼女にこう言った。

「口の閉じたカバンをお使いになればいいじゃありませんか。」

彼女は怒ったように返した。

「私は気に入ったものを何でもポンポン放り込みたい。そんなカバンは売ってないでしょ。だからこのカゴがいいんです。」

男は言った。

「私はパリでしがないカバン屋をやっています。あなたにぴったりのバッグを私が作ってみましょう。」

すると男は、前の座席に付いていたエチケット袋を取り、その裏にデザインを描き出した。

「こんなのはどうでしょう?」

男の名はジャン・ルイ・デュマ。
当時のエルメスの社長だった。

2年後、エルメスはそのバッグを正式に発売する。
バッグには、製作のきっかけとなった女の名前を付けた。

今やステータスのシンボルとなったバッグの名前は、「バーキン」。
女の名は、ジェーン・バーキン


ガンズ・アンド・ローゼズ新曲「Absurd」リリース

ついに、というべきか、この期に及んで「いきなり」というのもどうかと思うのだが、スラッシュ入りのガンズとしては実に28年振りとなる新曲「Absurd」がリリースされた。

こちらである。勝手に和訳をつけといた。

youtu.be

新曲といっているが、実際にはすでに20年以上前に書かれていた曲で、2001年のライブでアクセルはこの曲を披露している。スラッシュを交えて改めてレコーディングしたものをリリースした、ということである。

いじりすぎな感があるヴォーカルは気になるものの、一応、正真正銘、あのガンズ・アンド・ローゼズが新たにリリースした新曲、ということになる。気合の入ったスラッシュのギターソロが印象的な、「Chinese Democracy」の作風を継いだアクセル製ヘヴィロックチューンだ。

なぜこのタイミングなのか。

恐らくガンズはコロナが正式に(?)明けた暁に、最後の大儲けとなるであろう盛大、、壮大なワールドツアーを計画しているのだと思う。最後という確証はないが、まあそんな気は少しする。それに合わせて、これまで貯めていた曲をアルバムとしてリリースするのではないだろうか。

ガンズともなれば、別にアルバムなど出そうが出すまいが世界中のスタジアムを満席にすることができるのだが(今までずっとそうだった・・・)、ここはどかんと、正式にニューアルバムを出して話題をかっさらってツアーをしようじゃないかと、思ったのではなかろうか。

当然のように世界中のビッグアーティスト達がコロナ明けの活動を計画している。

苦しかった2年間の終わりを祝おうと、誰もがお祭りを計画している。

でも、ライブをいくつも観に行けるほど金銭的な余裕がない人が多い。

であれば、ガンズのショーに来てもらうには、やはり大きな口実が必要となるのだ。

その手始めがこの「Absurd」のリリースではないだろうか。

この1曲だけではインパクトが弱く、旋風を巻き起こすことはできない。

2022年頭あたりに新作を出して、ワールドツアーを発表する、という算段じゃないだろうか。