海外メディアが報じる日本

海外メディアが日本の出来事をどう報じているか?解説付きで日々お届けします

ガンズ ・アンド・ローゼズ講談

1986年ころ、ガンズ・アンド・ローゼズはハリウッドのロックファン界隈で話題になる。
TroubadourやRoxyなどのクラブでライブをやれば、必ず満員だった。

1987年にゲフィンレコードと契約、デビューアルバムを出した。
のちに傑作と評されるようになるこのアルバムだが、チャート初登場は182位。

1stシングルはロサンゼルスについて歌った曲。
ヴォーカル、アクセル・ローズがホームレスと出会ったことがこの曲のきっかけとなった。

ホームレスは若い奴を脅してやろうと、こんなことを言った。

おまえはここをどこだと思ってるんだ?
おまえが来たところはジャングルだ
おまえなんか死んじまうだろうさ

この曲はクリント・イーストウッドが主演の1988年のダーティー・ハリーシリーズで使われ、バンドメンバーもこの映画にカメオ出演をした。

でもヒットにならなかった。

社長のデイヴィッド・ゲフィンはMTVのお偉方と話をして、MTVの放送が終わる時間帯に、毎晩流してくれることになった。
夜中に起きている若いロックファンからのリクエストが集まり始めた。

それでもヒットと呼べるまでにはならなかった。

爆発したのは次に出したシングル。

アクセル・ローズエヴァリー・ブラザーズのドン・エヴァリーの娘、エリンと結婚した。
1ヶ月で離婚してしまうのだが、この時に書いていたいくつかの詩が歌詞となった。

バンドのギタリストのスラッシュが音を出しながら遊んでいたところ、アクセルはあるフレーズが気になった。

今のリフみたいなところ、もう一回弾ける?曲に出来ると思うんだ。

スラッシュは答えた。
「何言ってんだ、こんな音。こんなのまともな
曲にならないよ。」

いいからいいから。

ダメだ、ダメだ。

次の日には、アクセルは書いていた歌詞をまとめて曲と合わせた。

この曲が発表された時、ガンズ・アンド・ローゼズエアロスミスの前座として、アメリカ、オーストラリア、日本を回っていた。

そのライブ・パフォーマンスが評判を呼び、
だんだん人気が出てきた。

この時、ローリング・ストーン誌はエアロスミスの大取材を行った。
もちろんエアロスミスの記事が大々的に出たのだが、表紙を飾ったのは前座のガンズ・アンド・ローゼズだった。

エアロスミスのツアーが終わり、バンドがハリウッドに戻ってきた頃には、このシングルは全米1位になっていた。

この曲がきっかけで売れるようになった彼らのデビューアルバムは、発売から50週、約1年を経て全米1位へ上り詰めた。

小泉八雲講談

彼はいつも自分のルーツを探していた。

父親はアイルランド人、母親はアラブ系のギリシャ人。
しかし両親は彼が4才の時に離婚し、彼は親戚に育てられた。両親の記憶はほとんど無い。

「僕は自分のルーツが分からない。どこにいてもしっくり来ない。僕の居場所はどこにあるんだ。」

学校を出ると彼はアメリカへ渡った。
文章を書くのが好きだった彼は自分の視点で見たアメリカでの出来事を書き、新聞に投稿した。
その記事は高く評価され、彼は新聞社の契約記者として抜擢された。
しかし彼の心にはまだモヤがかかっていた。

新聞の仕事は楽しい。
ただ僕の居場所は、このアメリカじゃない気がする。

ある日ふと彼の目に、後輩の記者が書いた記事が飛び込んだ。
それはその記者が世界旅行をしたことを記した記事。
その中でもひときわ彼の目を引いた文章があった。

「ほとんどの人は知らないだろうが、その国はとても清潔であり美しい。住んでいる人々は文明社会に汚染されていない。まるで夢のような国だ。」

気づいた時には彼は船のチケットを買っていた。

あの記事に書かれている夢のような国、それが僕が求めている場所なのかもしれない。

一路彼が目指した国、それは日本だった。

彼を乗せた船は横浜港に入った。
初めて日本の地を踏んだ彼はその光景に驚いた。

何という国、何という秩序だ。

屋敷は全て緻密な作りで整然としている。
人びとの暮らしの中に細やかな芸術が宿っている。
文字も美しい。曲線を多用していて、それはまるで人々の心を表現しているようだ。

きっと僕は、この場所に長く居ることになる。
来日初日で彼はそう直感した。

彼はその気持ちを文にしたためた。
「日本はルーツを持たない僕を受け入れてくれた。僕も日本のこの秩序の一員になってもいいんだ。何て居心地がいいんだろう。僕はまるで千年もここに住んでいるようだ。」

やがて彼は契約していたアメリカの会社とは袂を分けた。
そして日本の文化を書き記しながら、英語の教師として生きる道を選んだ。

「いいですか。英語というのはこれから開かれた国になる為に、大切な物になります。しかしもっと大切な物があります。私が日本に来て感動した美しい物、この世界の中でここにしかない居心地を作っている物、それは伝統と新しさを見事に調和させた街並み。そして、箸置き、手ぬぐい、陶器、そういった日用品が全て芸術品であること。みな、ここにしか無い物です。大切にして下さい。」

東京帝國大学で教鞭を取りながら日本文化を世界に知らせる活動を行ったパトリック・ラフカディオ・ハーン

日本名は小泉八雲と名乗った。

サン・テグジュペリ講談

裕福な家で育ったサン=テグジュペリー。
大きな屋敷は彼にとって退屈な場所でもあった。
「ここでずっと暮らすなんてつまらないな…。僕はワクワクすることがやりたいんだ。」

彼は家族の反対を押し切って、当時最も危険な職業と言われたパイロットを目指した。
軍隊に入った彼は空軍を志望、26才で憧れのパイロットになった。
念願のパイロットの仕事は彼が思っていた以上に危険の連続だった。
不時着は当たり前。
砂漠の真ん中で救助を待って、何日も砂山を歩くこともあった。

「飛行機落ちちゃったなあ…。でも、砂漠はいいな。何にもないんだから。頭の中が本当に自由だ。もしかしたら、空からこの砂漠に、王子様でも降ってこないだろうか。その王子様が色んな星を回った経験を教えてくれる。そして幸せとは何か、僕に考えさせてくれたりして…」

砂漠の中で、彼は頭の中で一冊の本を書き上げていた。
自宅に戻ると一気にペンを走らせ、出版社へと持ち込む。
こうして彼のパイロットとしての経験がそのまま活かされた小説、「星の王子様」が誕生した。

「星の王子様」のヒットで有名になった彼に、妻が言う。
「あなた、パイロットなんて危ない仕事は辞めて、物書きに専念したらどうなの?」

「いや、僕は、空を飛んで地上に戻る。それを繰り返す度にいつも何かを発見するんだよ。この仕事で、人生って何なのか、少し理解できるような気がするんだ。小説は、その分かりかけたことを書き記しているだけなんだ。だから僕はパイロットは辞めないよ。」

第二次世界大戦に突入した。

その日の彼の任務は、敵の状態を偵察すること。
フランス軍の飛行機に乗ったサン=テグジュペリーは飛行場を飛び立った。
「じゃあ行ってくるね。また何か新しい発見をしてくるよ。」
その言葉を最後に、彼は消息を絶った。

それから50年以上が経ち、地中海から一機の飛行機が引き上げられた。
それはサン=テグジュペリーの飛行機だった。

このニュースを知って驚いたのは大戦中、ドイツ軍で爆撃機パイロットをしていた一人の男。

「僕はサン=テグジュペリの大ファンでした。彼の小説は、同じ飛行機乗りだった僕を勇気づけてくれていたんです。まさか僕が撃ち落としたあの飛行機を操縦していたのが彼だったとは。ごめんなさい。」

男はサン=テグジュペリの遺族に謝罪の手紙を送った。
それを受け取った遺族は返信した。

「ファンだった方に殺されてしまう。まるで小説のような出来事ですが、それが現実に起きたのですね。でもこの事実が知られることによって、戦争がいかに馬鹿げたものかが伝われば、彼もきっと安らかな笑顔を浮かべると思います。」

Roland創業講談

戦後の混乱期、郁太郎は結核で入院していた。
辛い闘病生活で彼を助けたのは、手先の器用さ。

「おい郁太郎くん、ちょっと見てくれよ。この時計、壊れちゃったみたいなんだ。」

「お安い御用です。明日までになおしておきます。」

頼まれた時計の修理やラジオの修理で、郁太郎は何とか医療費を支払うことが出来ていた。

よし、俺は技術者になる。
やるからには日本一を目指そう。

体が良くなり、散歩も出来るようになった彼はある日、大学の礼拝堂を訪れる。
そこで運命が変わる体験をする。

なんだこの音楽は。
こんなすごい音、今まで聴いたことがない。

「すみません、これは何という楽器なんですか?」

牧師が答える。
「これはパイプオルガンです。全部人間が作ったものなんですよ。」

「なんて凄いんだ。オルガンを作った職人、そしてそれを弾く職人。これは職人達が作った芸術なんだ。」

それ以来彼はオルガンの音色、そしてその技術の虜になる。

彼は自分が持っている電子機械の知識をフル動員させ、オルガンの音色が再現できる装置を作ることに没頭する。

納得が行く楽器が出来るまで、15年かかった。

彼はその楽器を、フランスの古い歌「La Chanson de Roland」から、Roland(ローランド )と名付けた。
そして次々に名器と言われる電子ピアノを生み出していく。

それから時が経ったある時、彼の心を揺さぶるメーカーが現れる。

アップル・コンピューターだった。

「カケハシさん、ぜひうちと一緒に新しい楽器を作りましょう。誰もが気軽に演奏できる。そんな夢の様な楽器を作ろうではありませんか。」

梯は迷った。
彼はアップル製品のファンであった。
この会社がこれから世界を変えていく会社だということを彼は理解していた。

しかしローランドは一緒に新しい楽器を作ってもいいのか。
その時、ふと彼の耳にあのパイプオルガンの音が聞こえた。

あの音が僕の原点だった。
あの演奏は実に素晴らしかった。
演奏する職人が頑張って練習する。
その結果いい音が出来る。
パイプオルガンの音色は、素晴らしい腕の演奏者が居るから素晴らしいんだ。

「すみません。せっかくの申し出ですが、ローランドは、誰でも簡単に演奏できる楽器は作りません。僕は芸術を愛する職人達が使う楽器を作りたいんです。」

こうして彼はオファーを断り、プロ向けの楽器を作り続ける道を選ぶ。

2013年、梯郁太郎は世界中のプロミュージシャンに認められた証として、グラミー賞の特別功労賞技術賞を受賞した。

ギネスビール創業講談

彼は生まれた時から大きな教会にいた。
家系は代々その教会の中で仕事をしていた。
食事作り、掃除、壊れた箇所の補修、経理まで。
牧師に仕え、教会に纏わるあらゆることをやるのが彼の仕事だった。

そんな中でも彼が最も得意としていたのが文章を書く仕事。
牧師が彼に言う。
「今日は不動産の書類の書き写し、それから料理や飲み物のレシピの書き写しを頼むよ。」

「分かりました、先生。ぼくはもうこの書類やレシピは何回も書いているので、すっかり覚えてしまいましたよ。」

「そうか。こんなに難しい書類がスラスラ書けるなんて、お前は将来不動産の方面に進んでもいいかもな。」
牧師がそう言うと彼はニッコリ笑って言った。

「本当ですか?不動産の仕事には興味があります。けど僕が本当にやりたいのはレシピの方かな。」

彼の亡くなった父親はビール作りの名人だった。
父親が作った秘伝のレシピは彼に取って宝物だった。
父親の手作りビールは世界一うまい。
でも手作りビールなんて所詮趣味の世界だもんな。
彼はそんな風に考えていた。

そんな中、運命を変える出来事が起きる。

病に倒れた牧師はベッドに横たわり、彼に言った。
「お前はこの教会を守るためこれまで頑張ってくれた。私が死んだら幾ばくかのお金を残すから、それで世の中の為になることをしなさい。」

彼は悩む。

世の中の為になるって何だろうか。

彼は考えながら街中を歩いていた。

そしてある発見をした。

道を挟んでこちら側は掃除が行き届いていて、活気がある。
道の向こう側は朝から酔っ払いがケンカをし、建物は落書きだらけ。

そうか。

こちら側はビールを飲む文化。
対するあちら側はジンを飲む文化だ。
安いジンを煽ったならず者が暴れ回り、街を荒らしている。
ならば僕がやれる世の中の為になること。

彼は不動産会社に行った。
「僕はビール工場を作りたいんです。どうか川沿いの土地を僕に売ってください。」
こうして不動産の知識を駆使して、水が豊富に出る川沿いの土地を安く手に入れた。
そして秘伝のビールのレシピを使って、ビール会社を設立。
彼の作った黒ビールは瞬く間に評判となっていった。

みんなが安酒を浴びるように飲む街はいずれ滅びる。
美味しいビールを今日のご褒美に適量飲む。
そんな街にならなければならない。

世の中の為になる仕事。
僕に取ってはそれは、ビール作り。

グリコ創業講談

江崎の実家は地元では有名な薬屋だった。
長男だった彼は幼い頃から薬屋を手伝っていたが、店の経営は火の車だった。
生活は苦しく、学校に行くのもままならない日々。

江崎は学ぶことが好きで、近所に住む寺子屋の先生のもとに行っては、色んなことを教えてもらっていた。

先生は言った。
「今日はお前に商売について教えてやろう。いいか、商売は自分の為だけではなく、世の中の為にやるものなんだ。自分だけ儲けるのは商売ではない。世の中が得をしなくちゃ駄目なんだ。」

「そうなんだ・・・。世の中が得をする。それが商売なんだ。」

しかし父親が亡くなってからは、自分が一家の大黒柱。
先生の言葉はすっかり忘れて、彼の頭は借金の返済でいっぱいだった。
やれる仕事は何でもやる。思いついたことは何でもがむしゃらに取り組んだ。

最初に目を付けたのは、滋養強壮の薬として飲まれていた、ワインだった。
樽に入っているワインを瓶に移し替えて売る商売を始め、これが当たって、彼は親が作った借金を全て返すことができ、家庭を持つこともできた。

そんな時、彼を悲劇が遅った。

「残念ながら、あなたの息子さんの病名は、腸チフスです。」
彼の幼い息子は、死の病と言われた腸チフスに侵された。

「仕事ばかりで息子に目が向かなかったからこんなことに・・・」
彼は酷く落ち込んだ。

息子の体重は日に日に落ちていった。
医者が言った。
「手を尽くしていますが、こればかりは何とも難しいです。」

「いかん。俺の手でなんとかしないと・・・。そう言えばこの間研究していた、牡蠣を煮た時に出る煮汁。栄養たっぷりのあの煮汁を、薬として商品化出来ないかな。」

「先生、息子に牡蠣の煮汁を与えたいです。お願いします。」

「私は責任は取りません。しかし薬屋のあなたがそういうなら、やってみたらいいです。」

彼は牡蠣の煮汁を毎日病床の息子に与えた。
すると息子はみるみるうちに元気を取り戻し、死の病と言われていた腸チフスから生還したのだった。

「やったぞ。この牡蠣のエキスはとんでもないパワーを秘めてるんだ。」

こうして彼は牡蠣のエキスで商売をすることを思い付いた。
「さあ、これでどうやって商売をするか。」

不意に、あの先生の声が彼の耳に蘇った。

世の中が得をする、それこそが商売なんだ。

「そうか、これを薬にしちゃいけないんだ。薬だと値段が高い。困っている子供の元には届かない。これはお菓子にしよう。それならきっと世の中が得をするものになる。」

こうして出来上がったのは、牡蠣のエキスから取ったグリコーゲン入りのキャラメル、グリコだった。

ジミヘン講談

彼は陸軍に入ったが、軍隊から追放された。
ロクな男じゃなかったのだ。

でも楽器はうまかった。
色んなバンドから声がかかった。
その頃、R&Bの最大のスターと言われたリトル・リチャードのバックを務めた。
化粧をして口紅を塗った奇妙なスタイルの男。
アイズレー・ブラザーズのサブメンバーでもあった。

やがて彼はブルー・フレイムズというグループを結成。
ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジのカフェ「Wha?」と契約、箱バンとして夜な夜な演奏をした。
イギリスのロックグループの一人がこの店に来たとき、彼はこのバンドがやっていたある曲に引っかかった。


おいお前、ピストル持ってどこへ行くんだ?

俺は嫁を撃ちに行くんだよ。
他の男と浮気しやがって。

そりゃお前、かっこ悪いよ。

おいお前、嫁を撃ったんだって?どこへ行くんだ?

俺はメキシコに逃げるんだ。
誰も見つけられないところに逃げるんだ。

イギリスのバンドのメンバーは本人と話した。

この曲、イギリスじゃ絶対大ウケするよ。
俺と一緒にイギリスに行こうよ。
録音してレコードを出そうよ。
俺がマネージャーになるからさ。

結局1967年2月、イギリスで6位。
彼の快進撃が始まった。

この時のデモテープに彼の声が残っている。
「バンドの音をもっと上げてくれる?俺の声はもっと下げて。」
彼は自分の声に自信が無かった。

でも心の中では、「あのディランが出来るんだから、俺にも出来る」
そう思っていた。